ANA国内線【PR】
トップ
久保田潤 草枕
kubotajun.exblog.jp
短歌
 最近、短歌を読み始めた。絵でいうとスケッチだろうか。面白い。稚拙ではあろうけれど御笑読。

夜の川浅瀬に大きな鷺が立ち眠っているのか微動だにせず

砂浜に打ち寄せられた古タイヤ中に小さな魚が泳ぐ

原発は経済であり経済は世界であると言われても

早朝の浜で若布を拾いたりサーフボードに掛けて帰り来

凪海に雲ひとつない抽象と振り向いた陸のごちゃごちゃとした具象

光には速度があるというからに見える全ては少しの昔

情報と我の周りの出来事と同じに思えぬ震災境に

放射能は闇夜の巨象のようにある小さき手が触れ皆勝手言う

ゴミを出す朝の空気に混じりいる煙草の匂い不意に香し

春嵐の翌朝の潮引ききりて寄せて山成す昆布や若布
# by kubotajun | 2012-04-15 18:00 | Trackback | Comments(0)
映画鑑賞
 ヴィム・ベンダースの3D映画「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」を見た。これほど面白い映画は久しぶりだった。ベンダースは「アメリカの友人」「ハメット」「パリ・テキサス」「ベルリン天使の唄」「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」等を見ている。3Dはジェームズ・キャメロンの「アバター」についで二度目。ピナ・バウシュについては全く知らず、この映画の情報を通して知った程度。すでに物故している。
 ベンダースの映画は今まで、流行りや成り行きで見ていて共感が薄かったのだが、この「Pina」にはすっかり取り込まれてしまった。わたしにとってはこれがベンダースのベストだ。
 3Dも面白く感じることが出来た。「アバター」を見たときには随所に違和感を憶えたが、今回はそれも薄く、今後映画は全て3Dになるのでは、と思うほど撮影術、上映術も確立されつつあるように思った。
 ピナ・バウシュに至っては『知らないの?ホントに?」と言われてしまうようなコンテンポラリーダンス界の巨匠のようで、ダンスの中に強烈な物語性が内包されていて、こうしたコンテンポラリーダンスが流れとしてあるのか唯一無二なのか浅学で分からないが、「圧倒的」という印象であった。この、ベンダース、3D、ピナ、の3つの幸福な出会いが映画を質の高いものにしている。
 近年の映像の爆発的な氾濫の中で、急速に拡大を続ける映像の地平に相対してその価値を否応無く変えさせられているからなのか、わたしは映画に対する感心を昨今失いつつある。
 そもそも映画とは、動く写真の驚異であった。本当に起きたことが動いている状態で再現される、ということを目の当たりにした最初の人の驚きはどれほどのものだっただろう。
 スクリーン上でまるで本当のような出来事が起きているかのように感じる、という映画の特性は、おそらく今も変わってはいない。だが「映画に似たもの」が多数出現し、映画の領域を浸食し、それに対し映画がそれに拮抗する強度を持っているのかが試されているのが今という時代なのではないか。
 ベンダースはそういう「今」を充分に意識して、この映画を作っている。映画とは何か?、映画の中のダンスとは?、映画にとって立体映像とは?。こうした問いが満ち満ちて絡み合い、「Pina」はわたしにとって昨今見たなかで、飛び抜けて面白い映画となった。
# by kubotajun | 2012-03-15 16:16 | Trackback | Comments(0)
読み終えられない。 
 読み終えられない本が少なからずある。1996年に出版されてすぐに買った、ジェイムズ・ジョイス 「ユリシーズ」((丸谷才一、永川玲二、高松雄一訳 集英社 全三巻)も何度も読み出しては挫折した。
 昨年暮に、再び読むことを決意し、とにかく気持の良い状況で読めば読了出来るのでは、と考え、風呂で読み出したら、一巻目で浴槽に落とし、乾くと綴じてない側が倍ぐらいの厚さになってしまったりしたが、今回めげたら死ぬまでこの本は読めない、と思い直し、苦行のように風呂で読み続け(他では到底読めない)、やっと三巻目に入った。
 読んでいる、と言っても、理解できる、という状態にはほど遠く、ただただ字面を追っているだけでだ。様々な思いが始終起き、起きながら読み進んでいる。「思い」は以下。
 (一万二千円も出して当時意気込んで買ったのに、読めずに十六年。)(すでにそれが文庫化されていてくやしい。)(こんな読書に意味があるのか。)(二十世紀を代表する小説のひとつ、と言われているものを読了出来ないおれの脳。)(ジョイスはなんで「こんなもの」を書いたのか。)(戦争の世紀の不穏な空気感。)(これは、やはり読みさしになっているトーマス・マンの「魔の山」にも色濃く感じたな。)(と言いつつ、大きな震災や原発事故があったのに実感のないおれ。)(小説とは。)(知らない言葉の羅列。)(知らない社会。)(知らない土地ダブリン。)(同じジョイスの「ダブリン市民」は読み易かった。)(キリスト教。)(性欲の話ばかり。)(フロイトの無意識。)(戦争ばかりで人々は辛かったから、無意識に逃げ込んだ。)(シュルレアリスムは無意識礼賛。)
 小説を読む、という行為の新たな次元がここにある。注意力散漫の嵐とでも言おうか、そういうものがユリシーズを読み始めると脳裏を激しく吹き荒れる。そしてそのことが文章の難解さを理解ゼロの領域まで広げていく。ユリシーズをいつ読了出来るのだろうか。読み終えると、何かが訪れるだろうか。
# by kubotajun | 2012-03-02 10:12 | Trackback | Comments(0)
日記
 朝、海岸を散歩。暮、正月三ヶ日は東京だったりして新年初海。材木座の端から江ノ島方面を見ると富士山。雲が上空から富士山に向って連なっている。富士は頭を雲の上に出し、これぞ日本。空の色を見ながら空色について考える。
 神奈近美葉山ベン・シャーン展を見て来た友人ふたりと夕刻御成町山本餃子で会食。ベン・シャーン良かった由、図録購入の由、展覧会が面白い、というのは良いもの哉。小生も年末に展観。ベン・シャーンと照応する美大生時分からの日本のデザイン小史を思ったことを思い出す。学生時分の友人の近況など雑談、飲酒。
 山本餃子には小生の絵が飾られていて、ふたりが帰ってから、やはり山本餃子にいた神奈近美学芸の友人から絵の示唆。ココシュカを見てはどうかとの由。強い色を使うことによる、色彩からの要請の感得が絵を広げる、と言われ、低頭。がんばります。
 帰宅。テレビ。サッカー三浦知良のブラジル紀行。趣旨とは外れたことだが、彼の青年時代のサッカー友人の今の職業がラジオの部品商と神父(牧師?)である由、今の日本と社会がずいぶん違う気がする。
 携帯電話の充電コードを差し込み、就寝。
# by kubotajun | 2012-01-08 12:17 | Trackback | Comments(0)
フェルメールの雲
 フェルメールに「デルフトの眺望」と呼ばれる絵がある。高い視線からデルフトを斜俯瞰している風景画だ。フェルメールの現存している絵の中で最も遠景を描いた絵だと思う。手前に陸があり、小さな人物があり、運河があり、対岸に建物群があり、上空に雲が浮かんでいる。
 建物群の向こうの雲は順光で光を受けているが、その上空、画面上方に見切れている大きな雲は暗部を見せている。これは上方にあるため遠近法で見上げるアングルになっているので大きな雲の底面が暗部として見えている、ということだと思う。光の反対の面。逆光ということだ。
 運河の向こうの建物群は、さらにその向こうの建物群が光の中にあるのとは違って暗部の中にあり、この上方の雲が太陽をさえぎっていることによって出来た影の中にある、ということなのかな、と思いながら見ると、実景をただ描いたというような写実感が後退し、この絵の計画性が顔を見せてくる。
 リアリティーとしてはわたしにはこの雲の影がこの建物群に落ちているようには見えないけど、それゆえに、フェルメールは「必然性がある」という理由でこうしたのだと思う。そこには奥の建物群の層と描写に差をつけ、奥行きを表す意図があるのだろう。フェルメールがこの光景をどれほど眺めたのか知る由もないが、雲が「上手い具合に」この位置にあるということは考え難く、このように光を設計したに違いない。
 しかし、わたしにとってのこの絵についての最大の「気づき」は、画面上方の大きな雲の、見上げた底面というか腹が、室内画でいう天井ではないか、ということである。フェルメールはデルフトの眺望に上空の雲という天井的なものを設定することによって、眺望を空間として捉え易くしようとする気持があったのではないか。
 この絵は室内画の名作「牛乳を注ぐ女」より一年ほど後の作とされている。フェルメールは室内画に活路を見出し、すでに何点か制作し、その後、この遠景に取り組み、室内空間と照応するように空間を捉えようとした、と考えると、一連のフェルメールの作品群の中での、この鬼っ子のような遠景画も他の室内画群とつながってくるように思えてくるし、遠景と室内画の尺度の違いを越えた、共通の空間把握の方法を探ったと考えるのも面白い。
 フェルメールのように世界を見ることができますように、と念じながらグレーの腹を見せている雲を自分の上方に頂いて、それを天井だと思って風景を眺めてみようか。
# by kubotajun | 2011-12-01 13:36 | Trackback | Comments(0)
< 前のページ 次のページ >